全国の皆様、今年もよろしくお願いします。ガングロです。
2024年は元日早々に地震が発生しましたね・・・。被害にあわれた方々に心からお見舞いを申し上げますと共に、1日でも早い復興をお祈り申し上げます。
実は私も2016年の熊本地震を経験し、家も会社も被害に遭いました。今からどうやって生活を再建すればいいのか、倒壊した物件に住んでいる入居者にどのような対応をしたらいいのか、途方に暮れたのを覚えています。
今回は真面目に、その時の経験と地震の時に大家として、不動産業者として何をしたかを書かせていただきたいと思います。少し長くなりますので、前編と後編に分けて紹介します。※後編は本日16時公開です
■2016年4月14日(熊本地震 前震)
夜の9時過ぎ。夫と1歳になりたての息子と3人でお風呂に入っていると、いきなりバッシャーンとお風呂のお湯が飛び跳ねて、息子が見えなくなりました。え、え、何事?!びっくりしている間に横揺れが始まって地震だと気づきました。
電気は消えて真っ暗になり、手探りで服を着て慌てて外に出ました。私が住んでいた益城町で震度7の地震が起こったのです。
近所の実家に住む両親には連絡がつかず、自分の家の状態もよくわからないまま、家族3人で車の中に避難して、報道番組を見ながら夜を過ごしました。ヘリコプターが空を飛んでいて、パタパタパタパタ・・・という音がずっと聞こえていました。
■2016年4月15日(前震の翌日)
夜が明けて家の中に入ると、ぐちゃぐちゃになっていました。でも建物は無事のようでした。平日だったので普段なら仕事に行く所ですが、実家が心配だったので、「実家の様子を見てから行く」と会社に伝えて、車で実家に向かいました。
益城町の主要道路は片側1車線の狭い道路でした。地震でブロック塀などが倒れて道をふさいでいます。そこに緊急車両と報道の車も加わり、道路には渋滞が発生していました。
1キロほどの距離なのに1時間経っても辿り着けず、裏道もブロック塀が倒れていて走行不可能。結局、夫が歩いて実家に向かってくれました。実家は想像よりひどい状況で、「もう住めないかもしれない」と夫が教えてくれました。
益城町は水が出なくなったので、ホームセンターでポリタンクを購入して、会社に行き、水を汲みました。それだけでは心許なく、ごみ袋の中の捨てる予定だったペットボトルにも水を汲みました。
会社は、水も出て電気も付きました。RC構造だから大丈夫だろうと思いました。週明けの出社日に社長(私の父)と修復の計画を立てようと、専務の叔父と話して写真も撮らずに家に帰りました。
幸い家の近所に変電所があり、電気はつきました。トイレが流せなかったのは不便でしたが、地震保険請求用の写真を撮ったり、片づけをしたりして家で過ごしました。
■2016年4月16日(熊本地震 本震)
夜中の1時すぎ頃、突き上げるような感覚で目が覚めました。また地震が起きたのです。子供を抱きしめて布団にもぐりました。私達を守るために覆いかぶさった夫に、外れて飛んできた引き戸がぶつかり、「痛っ」という声が聞こえました。
一昨日よりも激しく揺れていると思いました。家がつぶれるかもしれないと思い、子供に馬乗りになって揺れが収まるのを待ちました。とても長い時間に感じました。
地震が収まって外に出ました。タバコを立て続けに4~5本吸いながら、「どうしよう、、、」と夫と話していると、父の会社で専務をしている叔父から電話がありました。
「会社の入っている建物が倒壊した。自分はすぐに駆け付けることが出来ない。そちらも大変かもしれないけど、今すぐ行ってくれないか?」
父が経営する不動産会社は、自社が所有する昭和52年築のRC5階建てマンションにありました。1階のピロティ部分が事務所になっていて、社員15名がそこで働いていました。2階から上には16戸の3DKがあり、そのうち3戸が社宅で、残りの13戸を一般向けに賃貸していました。
倒壊したってことは人がたくさん死んでいるかもしれない・・・。
私は震えながら、夫に「会社に連れて行って」と伝えました。
会社に行く車内で、真っ暗闇の街の風景を見ていました。他にも倒壊している物件が多数あるだろうと思ったのですが、その様子はありません。うちだけが倒壊したのだろうか、住人は生きているのだろうか、と不安で仕方ありませんでした。
車で15分の距離が、とても長く感じました。すると暗闇の中、だんだん会社が見えてきました。目をつぶりたかったけど、勇気を出して会社の方に目をやりました。跡形もないのではと想像していたのに、建物は建っていました。
「倒れてない、会社、倒れてないよ?!倒壊したって言ってたのに、会社倒れてない!!みんな、生きてるかもしれない!!」
駐車場に車を止めて、社宅利用していた事務員さんに電話を掛けました。
「会社が倒壊したって聞いて来たんですけど、みんな無事ですか?!」
事務員さんは外に出ていて、私を見つけると駆け寄ってきました。思わずハグをしました。生きてるってわかり、ホッとして泣きました。
「みんな生きてるよ!大丈夫!でも、倒壊したのは本当だよ・・・。近くに行ってみてごらん」
私は事務員さんに促されて会社の方に近寄りました。
全然、何も変わってないじゃん?
どこが倒壊してるの?
建物はまっすぐ建ってるし。
え?
ん?
あれ?
もしかして1階が・・・ない?
暗闇で気づかなかったけど、よく見ると、会社のあった1階が潰れてなくなっていました・・・。
この建物は自社所有です。1階が潰れたのはショックですが、上の階に住む入居者さんの無事を確認しなければいけません。事務員さんに話を聞くと、生存確認は既に終わっていました。
「402号室の方だけこの場に居ない」という事でした。402号室まで行こうとしたのですが、余震が続いていてビルが崩れてしまう可能性があり、動けませんでした。
私達は外から402号室の方の名前を呼びました。入居者さんたちも手伝ってくれて、みんなで名前を呼び続けました。すると、パトロールで回っていた消防の方が来てくれました。
「このビルの住人は全員避難されてますか?救助は必要でしょうか?」
「402号室の方だけわからない」と話すと、「電話を掛けてみてください」と言われました。しかし、その方の電話番号も契約書も、すべて潰れてしまった事務所の中にあり、調べようがありません。
「何もわかりません」と伝えると、消防の方は後で中をチェックすることを約束して、その場を去って行かれました。
後日、402号室の入居者さんと連絡が取れました。1回目の地震で親戚の家に避難をされていたという事で、全員が無事でした。本当に良かったです。不幸中の幸いで、ケガをした人もいませんでした。
■2016年4月17日(地震翌日の午前)
徐々に夜が明けて、建物が見えてきました。1階は完全に崩れています。事務所の中のものは何も取り出せそうにありません。契約書も中です。入居者さんの名前も家賃の金額も何もわかりませんでした。
今後のために、その場に居た入居者さん全員と、連絡先交換をしました。
「この建物はどうなるの?新しい家は用意してくれるの?」
「荷物はまだ中に残っているけど、どうすればいいの?」
「こんなに危ない目に遭わせて、何か補償はあるの?」
「家賃や敷金を返してもらえないと次の家が探せない」
「地震保険に加入をしているでしょ。オーナーの保険金は私達ももらう権利がある!」
攻撃的な言葉、思いやりのある言葉、疑問質問、色んな事を言われました。でも、私だって初めての経験で、知らない事ばかりで、どうすればいいのかわかりませんでした。
「まだ余震が続いています。建物が倒れてくる可能性があります。ここは危ないので避難してください。私も今から避難所に行きます。必ず後で連絡をします」
こうやって避難を呼びかけることしかできませんでした。
そのうち、父と叔父も合流しました。父は家が崩れたため避難先にいたのですが、そこで被災してしまい、命からがら崩れた夜道を爆速で来たそうです。
会社はなくなったけど、社員達はほぼ全員集まっていました。この日は土曜日で出勤日ではなかったのに、みんなが連絡を取り合って、ここに集まってくれたのです。社長である父が言いました。
「見ての通り事務所がなくなった!来週の月曜日からは隣町の倉庫に集合!まだ危ないから避難を優先すること!以上!」
事務所がなくなったから会社としての操業を辞めるのではないか、明日から無職なのではないか、という社員の不安を吹き飛ばしてくれる言葉でした。私は社長としての父に尊敬の気持ちを抱きました。
■2016年4月17日(地震翌日の午後)
その後、実家と自宅を見に帰りました。実家も一階がなくなっていましたが、つぶれてはいませんでした。でも余震は続いているし、震度7の3回目があるかもしれません(あの時はみんなそう思っていました)。
母から、「この家に帰るのは最後だと思いなさい」と言われて、荷物を車に詰め込みました。
この日は日曜日でした。次の日から、不動産会社としての仕事が始まります。1階が潰れた社屋ビルの住人の方はもちろん、管理物件の入居者さんからも、連絡が殺到することが予想されました。
※後編は本日16時の公開です。