1月1日の震災発生から3か月が過ぎた。石川県近辺ではいまも放送の特別シフトが日々流されているが、それ以外の地域ではどうだろうか。
もちろん、さしあたりの命の危険がなくなったことは諸方面の努力によるものとして評価したい。一方でその後の「復興」ということについて、あるいはその過程にある現地の苦労について、他地域の認識や気持ちが追い付いているのかは疑問である。
叫ばれている南海トラフほかの来るべき災害への心構えとして、今回は考えてみたい。
2月末の羽咋市の状況
少し経ってしまったが、2月末に知人の被災住宅を確認に、羽咋市を訪れる機会があった。震災後北陸訪問も初めてということもあり、多少の緊張感とともに現地へ入った。
七尾までの通行は一般にも開放され、避難先にもある程度落ち着き、水道もそのあたりまでは復旧したと聞いていたが、穴水から先はまだまだ水も交通も、避難先も全く落ち着いていない状況であった。
羽咋において確認した市街地は応急判定の赤カード、黄色カードが多く残されていた。
確かに目視でも垂直が出ていない、傾いた住宅が多く場所によっては軒が落ちた結果、瓦も道路に滑り落ちてしまっているもの、また崩れた土蔵もそこかしこに見られた。
道路面もすでに復旧の手が入り、大きなひび割れはそれほど残っていなかったが、いろいろ高さレベルがおかしいのでは、という地点がいくつか確認された。
通常は接道している宅地が道路レベルより高くなるようにつくられるのだが、明らかに道路側のほうがせりあがった敷地や、交差点の電柱基礎と路盤レベルの取り合いが反転しているところなどが、見受けられた。
ニュースにもよく出ている、液状化でマンホールの土管だけが取り残され、路盤から突出している、という場面は見受けられなかったが、周囲でレベルを擦り付けて通行を確保しているのだという地点、また宅地側から流動化した土が路面に流れ出し滞留した跡などは普通に見受けられたのだ。
これらから考えると、敷地を定義する境界杭も水平にも垂直にも三次元的に動いていると思われ、今後の復興においてもその調整に困難が予想される。どこもかしこも動いてしまっているため、基準点が定められない→境界が簡単には確定できないのではないかと思われる。
羽咋市で宅地、住宅に起きていたこと
確認した住宅では、まず宅盤(建物の高さを測るための基準面、建物が接する地面)と路面のレベルの逆転があり、また訪れた敷地には地割れラインが敷地中央を横断していた。
家の犬走り部分も庭地盤より落ち込んでしまい、また基礎、土台が断裂している。
土台より上については先ほど書いたように、傾きはみられるが一応家のかたちは一見普通に残っているのだが、中に入るとわかるように建具を閉めたときに隙間が空く、開け閉めができずにいた、また畳面が波打っているなど、全体にゆがみが出ていることがわかる。
近隣も同様な状況ということで、やはり基礎+土台が傷んでいることから、撤去して建て替えするか、費用が大変にかさむが、曳家的大掛かりなジャッキアップで修理をするか、だが、後者の対費用効果を考えると、地域の8割以上は建て替えになるのだろうと想像される。
結果として今は奥能登などのほとんどが倒壊した市街地に比べ、被害が少ないように見えるこの辺りでも、実際にはほぼ更地になっているのと同じと考えるところからの復興なのだと考えると、解体が挟まる分、むしろ時間がかかるのではないか、とも考えられるだろう。
他に印象的だったのは、家財の中でも仏壇が大きなことである。
北陸地方の方はよく知っているかもしれないが、大体1畳分ぐらいのフットプリントを持った、いわば床の間一つ分を占める仏壇がほぼすべての家にあるということだった。
ほぼ造作でつくられているため、家から運び出すのは単なる人工ではできず、専門の仏壇屋さんの仕事になるという。
その費用も、また建築中の置き場の手配などもそう簡単にはできないことを考えると、必要なのだが、解体もなかなか進まない時点が出てくるのではないかと思う。
住宅はこの地域ならではの立派な作りで、欄間の細工、柱梁の漆、建具の豪華さなど、工芸的なところまで手がかかっていることがよくわかり、率直に解体は「もったいない」と感じる建築であった。
穴水市まで、そしてかほくの状況
視察後、七尾までは行けるとのことだったので足を延ばして行ったが、途中道の誘導を読み違えて、意図せず穴水まで行ってしまった。実際に道中、作業車、支援車が目立つようになり、道路面も復旧ほやほやという場所がいくつもあった。
これらを過ぎて穴水市街に入ると、いまだ道路面に倒れた家屋、点灯しない信号など、14年前の東日本大震災でも記憶される光景がそこにあった。外部からの交通ルートが限られるため、その時点で2か月の時間の後にもその状態が残されていることにやはり課題を感じた。
翌日かほくに別の知人の安否を尋ねに行くと、そこはもちろん一部の液状化などがあるにせよ、道路、敷地とも支障ない状態だったので一安心したのだが、その方の日常の意識を伺うと、「小さな揺れにも敏感になる」「いままで気に留めなかった路面の亀裂が気になってしまう」など、むしろ心理的な影響がそこにあることが感じられた。
特にとなりの内灘での液状化が印象に強いようだった。この地域にも輪島からの避難者が仮住まいを求めてきている、と聞いた。
復興に向かうための視点
県が発表した「創造的」復興ポリシーの強い言葉たちも素晴らしいことだが、被災者の言葉も実際に聞く機会が、地域外にもあればよいと感じる。本来は現地へ行き直接言葉を交わせることが何よりだと思うのだが、交通や滞在などそのキャパシティがあるのかどうかも、他地域からではリアルな実情がわからないところも、本来あるべき復興がむすぶ「つながり」を妨げていると感じる。
東日本大震災と比較するのも無理があるのは承知で考えたいのは、もっと「民間」の力が活躍できる、そういう開放的な復興プランがあるべきではないのか、という点だ。
それによってこそいろいろなスケールやレベルでの「つながり」が多層多重にこれからの長い道のりを支えていくのではないかと感じるのだ。
機会とタイミングを捉えて、引き続きこの復興については関心を寄せていきたい。
執筆:
(しんぼり まなぶ)