前回のコラムで、私がサラリーマン時代に2億円の自己資金を貯めた話を紹介しました。最初から不動産再生事業を起業するために、自己資金を貯めていたわけではありません。いつか、ある程度の年齢になったら「 独立起業 」をしたいと考えていました。
参照:会社員時代に2億円の自己資金を作った方法。カギはマイホームの買い方にあり
私は28歳から外資系企業に勤務していたので、クビになって転職先を探すことも常に想定していました。また、45歳を超えると「 60歳まで安定して高いサラリーを得ていくのは、難易度が高いな 」と考えるようになりました。
ほとんどのサラリーマンが直面することですが、ある程度の年齢で転職をすると、サラリーを相当落とさないと転職出来ないケースが多いのです。一般的な日本社会の慣習では、45歳くらいまでがキャリアアップの限界といわれます。
50歳前後でサラリーがピークアウトしていく、それが日本のサラリーマンの現実です。
【男性】産業別・男性の平均年収分布

令和2年賃金構造基本統計調査の概況(主な産業別にみた賃金)|厚生労働省
【女性】産業別・女性の平均年収分布

令和2年賃金構造基本統計調査の概況(主な産業別にみた賃金)|厚生労働省
50歳前後でキャリアのピーク( 年収の天井&能力開発の天井 )という現実を覆すためには、「 独立起業 」、もしくは「 サラリーマンとして経営の上層部に食い込んでいく 」という方法となるでしょう。
しかし、「 サラリーマンとして経営の上層部に食い込んでいく 」には、イエスマンを続けて、心をすり減らして、やりがいを捨てて、自分の望まない上司からの意味不明な指示に耐えて、納得いかない人事を受け入れて、給料の減額にも耐えていくことが必要です。
「 ここまで人間としての尊厳を傷つけられないと達成が出来ないのか 」というような日々を乗り越えて、ようやく達成できるかもしれない、そんなレベルです。
サラリーマンを30年前後やってきた方には理解出来ると思いますが、自分を評価してくれる人に恵まれて、その人が同じ会社に居続けてくれて、働く環境も良く、自分の能力が絶えずストレッチしていく状態、それを達成するには「 運 」が必要になります。
つまり、「 サラリーマンとして経営の上層部に食い込んでいく 」ことは、外部環境に依存する部分が多く、自分が頑張れば何とかなるといったものではないのです。
裏ワザとして、壁際族になり、若い人になじられようがしいたげられようが、毎日心を無にして会社に出社し、サラリーを確保していくという方法があります。例外的に、この方法ならば年収が維持される可能性があります。
しかし、非常に人間としての「 耐性 」が求められるやり方です。私はその現場をお客様先で見ていましたが、過酷に感じました。普通の人がこれをやると、すぐに精神を病むと感じるような環境でした。
付け加えると、私の所属していた会社は、壁際族として会社に残るという環境は許されなかったので、その選択肢は最初からありませんでした。
■ サラリーマンのキャリアを磨き、転職でステップアップをして、「 独立起業 」に繋げていく
話を戻すと、私は2008年に不動産再生事業に参入することを決めました。初期の頃はセミナーに参加したり、書籍を読んだり、これはと思う有償の情報を入手して学んだり、成功者、先輩に会える機会があれば出かけて行って話を聞いたり、というようなことを続けていました。
毎晩、サラリーマンの仕事が終わったら物件検索をして、検討出来そうな物件があれば問い合わせを入れて、翌日の昼間に電話をして、週末や平日の夜に物件見学をしながら業者さんと会うということを繰り返しました。
業者さんに会う目的は、その物件を購入したいというより、その業者さんが裏で持っている、お得意様にだけ紹介している物件を紹介してもらうことです。人間関係を構築するために、「直接会う」ということに注力していました。
数年間は友達に会う時間を削り、全ての時間を不動産業者さんと会うことに振り向けていました。唯一、趣味のテニスだけは継続をして、シーズン中は毎週、実業団の試合や地区の社会人チーム対抗戦に出ることを続けていました。
定期的に運動をするということは、リフレッシュという意味とフィジカルを鍛えて、事業の集中力を磨いていくという意味もありました。特に実業団などのテニスの試合は、会社の代表として試合にでるため、恥ずかしくない試合をしたいと思いました。
サラリーマンの仕事に加えて、不動産再生事業の起業・立ち上げ、そして週末はテニスの試合となると、友達と飲みに行く、食事に行くという時間を一時的に制限しないと生活が成り立ちません。
サラリーマンをしながら不動産再生事業に参入してからの7年間は、自分のやりたいこと、自分の趣味にかける時間を最小にして、「 自分の事業を安定稼働させる 」ことを第一に生活していました。
私の所属していた会社は外資系IT企業で、「 副業規定 」はありません。私は営業マンでしたので、毎年、非常に高い目標数字があり、その数字を達成することも非常にきつかったです。数字を達成出来なければ、いつクビになってもおかしくないという環境です。
しかし、属性の後ろ盾は、不動産の事業を拡大させるために必要でした。毎日、数字に追われながらサラリーマンの仕事をして、同時に「 不動産再生事業の立ち上げ 」を進めていきました。
結果的に、私は不動産再生事業を38歳から開始して、45歳までサラリーマンと並行して続けました。この7年間は、私にとっては地獄のような忙しさでもあり、会社と事業の両方で結果を出さなければいけないというプレッシャーと戦い続けた日々でした。
そして会社員を卒業した私は、セカンドステップとして、人を雇用しながら「 新規事業を構築していくこと 」、事業経営者としてステージをあげていくということを目指しました。これは、自分自身を成長させるために必要なことだったと感じます。
更に歩を進めていくと、サードステップに入り、次世代の若者や、次代を担う事業経営者、事業家の育成、後進の指導に力をいれるというステージが訪れます。これは非常にやりがいのある仕事です。
もちろん、目指したい方向は人それぞれだと思います。ただ一つ言えるのは、自分の目指したい方向に、知った先輩が多数いるのなら、次世代の事業家は、安心してチャレンジが出来るだろうということです。
もちろん、現在も自分の事業を続けています。自己資金2億円から始めた自分が、どこまで行けるか、何が出来るか、誰かのため、社会のためにできることを、追及していきたい、という気持ちがあります。
■ 2億円の自己資金はすぐになくなった
驚かれるかもしれませんが、2億円あった自己資金は、すぐに使ってしまいました。不動産再生事業の最初の3年間で、10億円近い物件購入を進めたことにより、頭金( 10%〜25%) と諸経費( 7%〜8% )に消えてしまったのです。
お金を貯めるのは本当に「 胆力 」がいるし、時間もかかるのに、事業でお金を使うときはアッという間です。それでも、私は「 事業への挑戦者としてステージに上がる 」ことを続けて、今に至ります。
どこまで挑戦を続けられるか、自分が試されているように感じるのです。そして何より、やりがいを感じるのです。こうした挑戦ができるのも、サラリーマン時代に自己資金を貯めて、不動産事業を起業して、安定的な経済基盤を築くことができたからです。
誰もが経済的な成功をおさめやすい事業、それは「 日本の不動産賃貸事業 」ではないでしょうか。サラリーマンで先が見えない人、経済的な悩みを抱えている人に、このコラムが一歩を踏み出すきっかけになれば幸いです。

〈サラリーマン時代・最終出社日:元勤務先本社にて〉
それでは、次回のコラムでお会いしましょう。