古い建物の立ち退き交渉を、依頼されることも増えた。交渉相手の中に家賃滞納者がいれば、まず立ち退きのことは秘した状態で滞納を理由に退去してもらう。あとは家賃をきちんと払っている良い入居者の人たちに、気持ちよく退去してもらうかという流れになる。
ところが家主の中には「今まで貸してやったから」「今まで便宜はかってきたから」という解釈からか、無策で「建替えるから出て行って。ちゃんと半年前に言ったからね」とばかりに上から最初の第一歩を踏み出してしまうことも少なくない。
こうなれば当然に話は決裂して、立ち退き料を高額に請求されるどころか立ち退いてもらえないこともでてくる。
気持ち分からなくもないが、建替えの立ち退き交渉に関しては、とりあえず下から下から。
立ち退き料を少しでも安くするためにも、スムースに建替えるためにも平身低頭に徹するしかない。
2年居座ります!
わたしが立ち退き交渉を受託するのは、真っ新な状態のとき。家主さんが第一歩を踏み出してぐじゃっとなってしまってからだと、なかなか交渉もままならず、立ち退き料も上がるだけなので基本は受託しない。
ただこのときは、高齢の家主さんが「助けてください!」と困り果ててらっしゃった。折しも時は12月10日。1月から解体の予定のところ、他の4組の賃借人の退去はすでに終わり、あと1件。75歳の一人住まいの女性だけが、退去の気配すらないとのこと。

はっきりは教えてくれなかったが、何か気にいらないことを言ってしまったらしく、「あと2年居座ります!」と宣言され、それ以降まったく口も聞いてもらえなくなった。
建物はRCながら築60年。かなり老朽化しており、賃貸併用住宅であったため家主も今回仮住まいに転居済。建替えができなければ、かなりのダメージを受ける状態だった。
仕方がない。ポリシーには反するが、ぐじゃっとなってからの受託となった。
さてここでわたしが何をしたか。
これはただ賃借人に寄り添っただけである。とにかく賃借人は怒っている訳なので、まずは謝罪に向かった。
「家主が失礼なことを言ってしまったようで……」
ただその言葉を発し、ひたすらに頭を下げた。
当初は怒り狂っていた賃借人だったが、わたしが頭を上げないものだから、さすがに振り上げた拳を下ろしてくれることになった。
「ほんと失礼だったの!」
家主に対する不満が出始めたので、「そんなことまで言ったのですか!」と同調し、すぐ近くの喫茶店に行くことに成功した。
そこで延々と3時間! わたしは賃借人の怒りを、ただひたすらに受け止めた。
24時間365日対応です!
どうやら賃借人の怒りは、長年滞納もなく住み続けた賃借人に対する配慮のなさからきていた。それが正しいかどうかは関係なく、わたしはただひたすら「そうだったんですね、ひどいですね、お辛かったですね」を繰り返すしかない。
まずは怒りを納めてもらうことが肝心だ。さんざん怒りをぶちまけた後、賃借人も古い建物には不満を持っているような気配もみえた。
そこですかさず「わたしが間に入りますから、何でも言ってください」と初めて同調以外の言葉を口にした。賃借人は怪訝な顔をしていたが、「電話代がもったいない」と言う。
そのため賃借人からワンギリしてもらったら、わたしが折り返し電話をすることになった。
ここからわたしの24時間365日対応が始まった。
賃借人は高齢ながらまだお仕事も少ししているようで、土日にばんばん電話がかかってくる。新幹線移動中にかかってきたときも「新幹線降りたらかけ直します」と伝え、新大阪駅から動けなかったこともあった。
とにかく立ち退き交渉で怒らせてしまった相手には、胸のうちを吐き出してもらって打ち解ける作戦しかない。夜でも休みでも何でも、ただひたすら話を聞いた。
物件探しに前向きになれば、一緒に部屋を探しにいって見に行った。75歳という年齢もあったが、仕事を終えて田舎に帰るまでの2年間ということもあり、比較的年齢を理由に断られることは少なかった。とにかく付き添う、寄り添う、同調する、立ち退き交渉を成功させるには、これしかないとわたしは思っている。
まる2週間密度の濃い付き合いをした末、めでたく賃借人は新居を決めてくれて年末に転居までしてくれた。
おまけに鍵の受け渡しに行った事務所スタッフには、お礼のお菓子まで持たせてくれるまでになった。
ほんのちょっとのボタンの掛け違い。されど立ち退き交渉においては、これが致命傷となる。年の瀬が近づき、この立ち退き交渉を思い出した。
執筆者:太田垣章子(おおたがき あやこ)
【プロフィール】
司法書士・章(あや)司法書士事務所代表
平成14年から主に家主側の訴訟代理人として、悪質賃借人の追い出しを延2000件以上解決してきた賃貸トラブルのエキスパート。徹底した現場主義で、早期解決のためにトラブルある物件には必ず足を運んできた。現場で鍛えられた着眼点から、賃貸トラブルの解決を導く救世主でもある。著書に「賃貸トラブルを防ぐ・解決する安心ガイド」(日本実業出版社)がある。