2015年に新築されて以来7年間、使われてこなかった8.75㎡の空間がある。場所は板橋区の幹線道路沿い、賃貸マンションの1階である。その狭い、使いにくいと思われていた空間が改装を経て使われることになった。
しかも、募集をする前に申込が入り、その後もこの物件に限らず、こうした使い方ができる物件を借りたいという希望者は増え続けており、なんと空き待ちが50人余にも。その使い方は菓子工房である。
菓子製造可物件へのニーズの高さ
物件があるのは車は通るものの、人通りの非常に少ない幹線道路沿い。当初はバーとして使う予定だった8.75㎡、約5.4畳の極小空間だが、集客が難しそうということもあり、2015年の新築以降、使われないままになっていた。
それが動き出したのは2022年春になってから。今回の物件を企画したPM工房社の久保田大介氏が自宅で菓子製造をやりたいという入居希望者と会ったことがきっかけになった。
その時には練馬区にあるDIY可物件に入居することで菓子製造ができることになったのだが、調べてみると菓子工房にはニーズがあった。
「コロナ禍でネット販売が普及、潜在的にやってみたいと思っていた人たちが副業・複業可という流れの中で行動を起こし始めているのではないかと思います。販売チャネルとして無料で簡単に始められるBASEというサービスの登場もあり、以前よりハードルは断然下がっているように思われます」。
ネット販売をするのであれば製造する場所にこだわる必要はなくなる。人通りは無くても良いのである。しかし、問題は菓子製造専用の物件が少ないということ。最近はシェアキッチンが増えてきており、そうしたものを使えば良いのではと思うが、実はそうではないと久保田氏。
「シェアキッチンの場合には多種の食品が作れるようにとさまざまな設備、備品等が用意されていますが、菓子製造では必ずしもそうした機器類が必要でないことも多く、それなのにその分として高い家賃を払わなくてはいけません。
それに菓子製造、特に焼き菓子では食中毒の可能性はかなり低いにも関わらず、シェアキッチンで食中毒が出るとその場全体が使えなくなってしまう。そのため、菓子製造をしたい人達は用途を菓子製造に限定した物件を待ち望んでいると言っても良い状態ではないかと思います」。
要件は意外に簡単
しかも、伺ってみると保健所から菓子製造の許可を取るための要件は意外に少ない。
「まず、前提として菓子工房が可能な用途地域かどうかという点があります。この物件があるのは近隣商業地域なので問題ありませんでしたが、住居系の用途地域は厳しく、とりわけ第一種低層住居専用地域はかなりハードルが高いです。
一戸建て住宅の場合には兼用住宅という手があり、店舗に使う面積が50㎡以下でかつ延べ床面積の半分以下なら店舗を設けることができますが、マンションなど集合住宅には適用されません。
物件の要件としては大きく2つあります。ひとつはトイレの前に前室が必要ということ。衛生面からトイレと作業場の間に別の空間を設ける必要があるというわけです。ただし、前室の広さについての基準は特にありません。
もうひとつはトイレあるいは前室にひとつ、また作業スペースにはキッチンのシンクとは別にもうひとつ手洗い専用のシンクが必要ということ。つまり、最低3つ、シンクが必要ということになります」。
もちろん、そこに冷蔵庫、オーブンレンジ、材料、器具類や作ったお菓子を梱包するスペースなども必要となるわけで、5.4畳の空間にそれだけのものを入れ込むのはパズルのようだったと久保田氏。
スペースを節約しようとガス台は設けず、置き型のITクッキングヒーターを用意、使わない時にはほかの場所に移動させ、作業スペースを広げたりできるようにしたり、壁のあちこちに棚などを付けるなど工夫を凝らした。コンセント全部にアースを付けるなどしてどこででも作業ができるようにもした。
偽情報に踊らされる人たち多数
と説明されると狭い空間に多くの要素をどう入れるかには確かに工夫が必要だが、菓子工房作りそのものにはそれほど難しい印象は受けない。ところが、そこにも問題があると久保田氏。
「こうした設備を作るためには保健所とやりとりをする必要がありますが、これまでいろいろな保健所に通って実感したのは『したほうが良いこと』と『しなくてはいけないこと』の説明をごちゃ混ぜにする方もいらっしゃるということです。
そのため、それを聞いた人のうちにはしたほうが良いことを全部やらなくてはいけないと判断、本当なら30万円で済むことが100万円かかることになり、それが原因で諦める結果になることが多いようなのです」。
分かりやすい例として挙げてくれたのは小麦粉を使う作業場の仕切りについて。「小麦粉を使うと部屋中に小麦粉が舞うので、その作業をするスペースは仕切ったほうが良いですね」と言われたのである。
だが、部屋を仕切ろうとすると壁と建具が必要になり、照明やエアコンをどうするかという問題もあって多額の工事費が発生する。でも、これはしなければならない項目ではない。だから、良いですねと言われたからと言っても絶対にそうしなくてはいけないわけではない。
同様にキッチンやシンクのサイズ、前室の広さなど推奨される広さ、サイズや目安はあるものの、それでなければ許可しないというものではない。だが、そう信じ込んでしまう人が少なからずおり、しかも、そうした人たちが自分の体験だけからこれが正解とばかりにブログを書いていたりもする。間違った情報を絶対と信じ込んでしまうのである。
先に入居者を想定、それに合わせた物件作りも可能に
しかし、きちんと情報を整理、必要な条件だけを満たすように作ればそれほど多額の出費をしなくても済む。既存物件で前室やシンクを作りやすいものであれば数十万円でできてしまうケースも多いとのこと。
今回はスケルトン状態から始まり、床、壁、トイレ、エアコン、キッチンその他の設置などをフルに行ったため、改装費用は約300万円だったが、そのあたりは物件次第というわけだ。
賃料は6万円+消費税。これまで1銭も稼いでこなかった極小空間の使い道としては上々と言えよう。しかも、この物件、募集をする前に申込があり、現時点では菓子製造許可が取れる賃貸住宅を借りたいという人が50人余も集まっている。
「運営している『ワクワク賃貸』というサイトで菓子製造許可が取れる賃貸住宅を作っていますという記事を出しただけです。スケルトンの図面を出して、こういう改装をしていくらで貸す予定ですと書いただけでそれ以上に詳細な条件などが決まっていない状況で見たいという問い合わせがあり、工事完了直後に内覧。それで決まりました」。
つまり、内部を見たことがある人は久保田氏、工事関係者以外では借りる人と筆者だけというわけである。
「通常、菓子工房を探しているという人に会えることはありません。逆にその人たちも他の不動産会社に行っても、菓子工房に改装しても良い物件、そのまま菓子工房として使える物件に会えることはめったにあることではありません。
そう考えると、今後、こういう場所で菓子工房付物件を作るけれど、借りたい人はいますか?とあらかじめ借りる人を想定してからの物件作りがあり得るのではないかと考えています。
今回の件でノウハウが蓄積されてきましたので、オーナー、保健所とのやりとりもできますし、工事業者を紹介するなども可能。これまで狭い、視認性が悪いなどで使えなかった物件が使えるようになってきたというわけです」。
コロナ禍で働き方、暮らし方が変化、不動産の世界でも住宅とオフィス、店舗、工房等の境界が揺らぎつつあるが、法の規制は変わっておらず、今回の件では食品衛生法を知ることになったと久保田氏。
「それ以外でも用途地域上の制限を知らずに住居系の用途地域で3階以上に店舗を入れてしまっているなど実は違法という例もあります。法が社会の変化についていけていないとも言えますが、それでも法がある以上、遵守する必要があります。法を知り、その範囲で面白い物件を作っていければと思っています」。
菓子製造ができる物件をという希望を「そんな物件ありませんよ」と却下せず、馬鹿にせず、どうしたら借りたい人の希望を実現できるかを模索した結果が菓子工房という新たなニーズに繋がった。
これからの不動産経営はこうした新しい時代のニーズを捉えられる人と組みたいものである。
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健美家編集部(協力:
(なかがわひろこ))