
緑があふれる複合商業施設で
“暮らす・働く・遊ぶ”がつながる
1997年に誕生した代官山プラース。代官山駅前交差点の目の前に東急不動産が開発したこの商業施設は、2008年に代官山ラヴェリエ、2014年テノハ代官山へ姿かたちを変えた。そして、2019年に営業を終了したテノハ代官山の跡地に、東急不動産が新たな商業施設「代官山プロジェクト(仮称)」を2023年秋にオープンする。

地下2階、地上10階、延べ床面積21,875mの複合施設で、設計は新国立競技場や根津美術館などの建築物で知られる建築家の隈研吾氏が担当。1〜3階が店舗、4・5階がコワーキングスペース、6〜10階が賃貸住宅という、“暮らす・働く・遊ぶ”がシームレスにつながるミクストユース型の施設である。
アフターコロナを見据えた
新しい自由でやわらかな建築
見どころは木材などの天然素材を多用し、和の要素をモダンに昇華させた建築物を得意とする隈氏の意匠設計だろう。「街の緑につながり、木々が織りなす木漏れ日からひとりひとりの暮らしが垣間見える、木々の成長と共に変わりゆく時代に寄り添う新しい拠点の姿」をコンセプトとしている。

近年の隈氏の作品といえば、木や石などの素材で小さな単位をつくり、それらを積み上げたり重ねたりしてすることで構築することが多い。今回のプロジェクトでは、緑あふれる小さな木箱をモジュールのように積み上げているのだが、木箱の形状にバリエーションを持たせせることで多様性や代官山が持つ自由な風土を表現した。
木と緑が響き合い街の緑へつながっていくと共に、建物の内側にはアトリウムが設けられ、テラスや地上にも自然光が降り注ぐ構造になっている。隈氏のコメントによると、コロナ禍以前の建築のテーマは「集中」だったが、コロナ禍以降は都市のさまざまな活動を分散させ、多様な存在へつくり変えていかなければいけないとのこと。

さらに、集中の時代の単調な箱に代わるものとして、新しくて自由でやわらかな建築を提案するのに代官山は最適な場所であり、「街の実験場」であり、「集合住宅の聖地」なのだと隈氏は語る。これはヒルサイドテラスや同潤会代官山アパートのことを指しているのであろう。
新しい試みの街づくりによって
丁寧に築き上げた代官山の価値
代官山を象徴する建物といえば、建築家・槇文彦氏によるヒルサイドテラスが挙げられる。旧山手通り沿いに1969年の第1期から1998年の第7期まで、店舗やギャラリー、オフィス、集合住宅などからなる複数の低層建築物がつくられていった。約30年にわたって文化を発信する実験を繰り返し、代官山という街そのものを創造していったのである。

時代に応じて素材やディテールなどは変化を見せるが、道路から建物をセットバックした余裕のある空間に積極的に緑を取り入れたモダニズム建築は一貫して変わることがなかった。やがて、関係のない他の建物もヒルサイドテラスと調和するようにデザインされるようになり、2011年にオープンした代官山 T-SITEにも大きな影響を与えた。

ヒルサイドテラスB棟の裏には、1919年に建てられ国の重要文化財に指定されている旧朝倉住宅がたたずむ。朝倉家とは旧山手通り沿いの土地を所有していた地主で、ヒルサイドテラスを管理しているオーナー一族のこと。
戦後、相続の際に相続税を支払うことができなかったため旧朝倉住宅は売却され、現在は一般公開されている。この歴史的建造物も代官山を代表するもうひとつの建築物である。
新しい建築物がシンボルと共鳴し
街が育まれ新しい価値が生まれる
現在工事が進められている「代官山プロジェクト(仮称)」から見て、代官山通りを挟んだ向こう側にある代官山アドレス。36階建てのタワーマンションや商業施設、渋谷区のスポーツ施設からなり、1996年まではこの場所に同潤会代官山アパートがあった。

昭和初期、緑に恵まれた起伏のあるゆったりした敷地に、2階建てと3階建ての鉄筋コンクリート造りのアパート36棟が建造。水洗トイレやダストシュートなどが備えられた、当時としては最先端の都市型住居だった。敷地内には銭湯や食堂などがあったことからわかるように、全体がひとつの街として機能するようにつくられた実験的集合住宅でもあった。

今でこそやわらかな印象の建築物で知られる隈氏だが、建築家としての活動初期はポストモダンを標榜していた。モダニズムの大家である槇氏とは真逆のスタンスだったわけで、世代も違う建築家の建物が生まれる背景には、同潤会代官山アパートから続く新しい自由な街を追求したいという試みが息づく。
そして、新たな建築物が街と結ばれることで、旧山手通りのたたずまいとは違った魅力が生まれ、代官山の価値は増していくのであろう。
健美家編集部