お待たせしました、お待たせしすぎたかもしれません。本名からハンドルネームである「ビル広田」と名前を変えて、1年ちょっとぶりに戻って参りました。
このビル広田という名前は、加藤ひろゆきさんが名付けてくれた高貴な名前ではありますが、みなさまには先にお伝えしなければならない誤解があります。
ビルをたくさん持っているからビル広田と思われているようですが、恥を忍んで告白しますと実はそうではないんです。僕の持っているビルの数なんてほんのちょっとで、ビル広田と名乗るなんておこがましい。
銀行返済、火災保険、固定資産税に追われ、請求書(ビル)がいつも山積みなのでビル広田なのです。Building(建物)ではなくBill(請求書)なんです。どうぞ、お間違えなく。
冗談はさておき、1度連載終了したコラムですが、ネット・ドラマでもよくある「シーズン2」として、再スタートします。改めて人生は何が起こるか分からないと思った次第であります。
健美家さんに、広田リクエストをしてくれた方々、1人1人に直接お礼を言うことは叶いませんが、心の底からお礼を申し上げます。
■ 20代の時にテナントとしてレコード店を起業したビルを購入し、オーナーになる
さて、最初にご報告したいのが130話で書いた僕の創業地のビルを購入した話の続きです。先に簡単にこのビルと僕の関係を書いておくと、以下のようになります。
1999年12月11日:ビルの2階を借りて、レコード店を起業
2021年12月10日:ビルを購入
2022年12月10日:ビル地下にライブハウスがオープン
このビルは、当時のレコード店の名前から「サファリビル」と名付けました。その頃は1階がHIP HOPのクラブで、地下はお洒落な東南アジア料理のお店でした。それがコロナで退去となりました(それで僕がこのビルを売値の半額で購入することができたのですが)
田舎には珍しく地下テナントがあるので、絶対に音楽のクラブやライブハウスなどに入って欲しいと思いました。騒音や振動をかなり吸収してくれるし、何よりも地下に行くって何か悪いことをしているようなドキドキ感があるじゃないですか。
このビル全体を音楽やアートなどカルチャーを発信するビルにしようと考えました。そして、132話に書いたように、建築デザインの会社さんに入ってもらいビルの外観を大改修することに決めました。
写真を見てわかるように、僕がお店をしていた2階の店舗は外から中の様子が見えません。自分でお店をしていたので、それがマイナスであることはよく分かっていました。それに、外から見えないと犯罪等も起きやすくなりそうです。
現地を見たデザイナーさんから、「両脇にあるこの丸い柱は今の時代は絶対にないね。バブルの時にお金をかけたものだから、残しても面白いと思うよ」と言われました。
Netflixの「全裸監督」の撮影時、90年代のビルの雰囲気を出そうとしたらそういうビルがみんな壊されてなくなっていて、唯一残っていたのが渋谷のチェルシーホテルの入っているビルだったと聞きました。
今回の僕のこのビルはちょうどバブル真っ只中に作られたビルであり、こういう雰囲気を残すのは、ビルオーナーの責務だなと血が騒ぎました。そして、イメージ図が変更され、丸い柱が残りました。
最初のデザイン
丸い柱を残したデザインに書き換えられた
改修費は1,000万円近く…。その分、家賃を安くした方が僕にとっても入居者さんにとっても良いんじゃないかと何度も考えました。しかし、それでは結局今までと同じ、「安く買って、安く貸す」ということになります。
投資であれば、それが僕の必勝パターンですが、このビルは僕の創業地です。それに、僕がこれまで買ってきたシャッター街や裏路地のビルではなく、表通りの一等地のビルです。僕の感覚も変えていかなければいけません。
コロナ禍でも唯一退去しなかった2Fの韓国料理屋さんは、このデザインをスマホの待ち受けにするほど気に入ってくれました。
■ 地元の人気ライブハウスが新店舗の場所を探している!?
工事を進めていたある日、新聞で「地元の人気ライブハウスがビルの建て替えにより一時閉店、新店舗の場所を探している」という記事を読みました。その直後に、僕はそのオーナー宛にメールを書きました。
御社のライブハウスから僕のビルまで距離はわずか100メートル程度です。そして僕のビルにも40坪の地下店舗があるので、ライブハウスにも対応可能です。何よりも僕が音楽が好きで、是非とも御社に入居してもらいたいのです。条件も内装工事等も色々と協力できます。
返事が来ないので、その日の夜にライブハウスまで行きました。受付の人が「後で連絡をするように伝えておく」と言ってくれましたが、返信はありませんでした。
閉店の忙しいタイミング、向こうにも都合があります。だから1週間待ち、もう1週間待ち、そしてもう1週間…。連絡はありません。でも、こちらが勝手に動いたことです。だから、忘れようと思いました。
そんなある日、僕のビルでライブハウスをしたいというSさんという50代後半の方から連絡をもらいました。聞けば、閉店するライブハウスで20年ほど前に、店長をしていたというのです。
「ずっとライブハウスをやりたかったが、決断できなかった。昔、自分が店長をしていたライブハウスが閉店すると聞き、遊びに行ってみた。そこで広田さんの話を聞いた」と言います。
奥様にその話をすると、「人生の最後に後悔しないようにやってみなさいよ」と背中を押されたそうです。奥様も含めて、現地で会うことになりました。ライブハウス工事に強い工事業者さんも連れてくるといいます。
業者さんたちに、Sさんのことを聞いてみたのですが、「1990年代の群馬県のライブハウスでは、あの人に認められたら一人前という感じでしたよ。あの方の呼び屋としての人脈や人当たりは唯一無二。伝説の人ですよ」
数日後に、Sさんから「手書きで書いた図面ができたので見て欲しい。あと、ライブをやるバンド側の意見も聞きたいので現地を見せていいか」と連絡がありました。
図面をもらって驚きました。手書きですが、かなり詳細に書き込まれていたのです。ここまで計算した図面を書けるのは、現場をよくわかっている人だけです。
現在完成したライブハウスは、ほぼ100%、この最初にもらった図面通りに作られました。スケルトンの店舗からそこまで見えていたというのは、それほどのプロということです。
■ 僕のビルで、ライブハウスがオープンした!
内見の日、僕は目を疑いました。僕が中学生でバンドに夢中になっていた頃、群馬では、BOOWY、BUCK-TICK、ROGUEというバンドが有名でした。そのROGUEのギタリスト・香川誠さんが、目の前に立っているのです。
まさかこんなところで、学生時代のヒーローに会えるとは!さらにその隣には、群馬のローカルでは一番有名なバンドG-FREAK FACTORYのボーカル、茂木さんがいました。
観客や音、照明、控室などのプランをSさんはアーティストたちに堂々と説明し、アーティストたちもSさんを信用している雰囲気が伝わってきました。
その後の話は省略しますが、偶然にも僕がこのビルを購入したちょうど1年後に、ライブハウスがオープンしました。記念すべきオープニングはG-FREAK FACTORY。
僕は事前にオープン予定日を聞いていましたが、一般告知されたのは、オープン5日前だったようです。そして翌日にオンラインでチケットを発売すると、100名分が10分でソールドアウト!
僕はビルオーナーとして(長期のフリーレント&賃料もかなり協力したこともあり)、このライブは招待してもらいました。夜、チケットを買えなかったファンが、建物の前にたむろしていました。
オープニングにふさわしい熱いステージでした。翌日、この日のセットリストで僕はプレイリストを作りました。「らしくあれと」という曲は、既に1,000回は聴いています。
■ 自分の利益のために始めたビル投資が、地域や人々のためのビル投資に
G-FREAK FACTORYのボーカル茂木さんがSさんにライブ終盤で、観客の前で言いました。
「あんたが長い間、群馬の音楽シーンを離れている間に大変なことがたくさんあった。でも、コロナでライブハウスが危機的な状況の中、あんたは戻ってきてくれた。だから、俺たちはあんたに感謝しているし、応援する」。
なぜか、自分に言われているような気持になり、勝手に勇気をもらいました。また、ライブの前座を務めた若いバンドの子の言葉も心に残りました。
「自分たちがバンドを組んでから、ライブハウスが潰れることはあっても、新しくオープンしたことはありません」。
そうか、この子達の世代はそういう世界で生きているんだ。僕たちオジサンがこうやって若い子に喜んでもらえることを自分の仕事にできているのは幸せなことだ、と心から思いました。
自分の利益のために始めたビル店舗投資はずっと、利回りや数字が大切でした。でも今は、少しずつ地域やそこに住む人々のお役に立てるような投資を考えられるようになりました。僕を育ててくれたこの街にお返しすることは義務なのではないかとさえ思っています。
まだ自分のことを考えるだけで精一杯な若い世代の皆さんが、いつかその先を考えた時、ガイドになれるような、そんなコラムを書ければいいなと思っています。
僕のシーズン2のコラムを、どうぞお楽しみに。
サファリビル、ライブの夜