30代の会社員のときに、ワンルームマンションを都内で買ったことを機に不動産投資を始め、投資家&大家として20年以上のキャリアを持つ小川貞夫さん。
ワンルームを8戸買い進めるも、1棟アパートに路線変更。リーマンショックを機に勝負をかけ、アパートを「爆買い」し、一気に100戸を超える規模に。その後、会社員を辞め、今では専業大家として、北関東エリアで、ワンルーム、1棟アパートなど計112戸を所有し、約半数を自主管理する。不動産投資を始めたきっかけから、物件を買い進めた方法を紹介する。

バブル絶頂期に体験した相続で、
2億円を超える支払いや、「差し押さえ」の危機を体験
経理専門学校を経て、都内でサラリーマンをしていた小川さん。長年、会社員としてパソコンソフト業界で経理の仕事に従事してきた。
「上場企業の経理や会計の業務にあっていたため、当然ながら、大家業の申告書ぐらいは自分で作れます。経理の知識は、不動産投資や大家業に役立ちます。簿記2級レベルの知識があれば大家業をやっていく分には十分でしょう」
そんな小川さんが、お金のことで窮地に立たされたのが、1990年のバブル絶頂期のこと。祖母が亡くなり、遺言により、東京と神奈川の境にある川の中洲と、学校の裏手にある山を相続することになった。
しかし後日、親族から遺留分を求められ、財産「差し押さえ」の通知が届く。さらに多額の相続税の支払いも重なり、2億を超える支払い額に、青ざめる。支払いに頭を抱える中、相続した山に隣接する学校から、「学校の敷地を拡大するために山を買いたい」との話が舞い込み、売却したことで諸々の支払いのめどが立ち、余裕資金ができる。この余裕資金をもとに、不動産投資を始めることになる。
「東京に住んでいたのですが、この相続をきっかけに群馬に『都落ち』しましてね。その後、東京の企業に転職し、経理の仕事に携わるのですが、仕事がハードで、特に決算発表の前は馬車馬のように働きましたね。
群馬から東京への通勤にも疲れ、自分の住まいを兼ねて入谷で16uのワンルームを700万、現金で買いました。高崎線で、上野経由で通勤していたこともあり、通勤の便を考えて選びました」
自分が住むために買ったものの、人に貸すことでそれなりの家賃収入になることを知る。さらにその後の経験から、ワンルームは管理が楽で、特に入居者がすでに住んでいる「オーナーチェンジ」の場合、ほとんど手間がかからず、「これはすごくいい投資だ」と思ったそうだ。
1戸目は不動産業者を介して購入したが、売買を通じて知り合った不動産業者に誘われ、信販会社による不良債権のオークションや任意売却(借入金が返済できなくなった場合、売却後もローンが残ってしまう不動産を金融機関の合意を得て売却する方法)に参加するようになる。
「当時は不良債権処理が盛んに行われていました。その流れで、信販会社の不良債権のオークションが行われていたのでしょう。相場よりも安くワンルームマンションが買えることから、信販会社のオークションや任意売却で、ワンルームを買い始めます。信販会社のオークションは、私が知る限り、2005〜2006年頃には終わり、今はないようです」
ワンルーム投資の条件は、表面利回り10%前後。
山手線の駅に接続する駅徒歩10分以内、2階以上
そうして1999年〜2006年にかけ、ワンルームを8戸、買い進めていった。物件選定のポイントは、以下だ。
・表面利回り10%前後(管理費や固定資産税等を指し引いた実質利回りは約7%弱)
・オートロック
・2階以上
・東京都内で、山手線の駅に接続する駅から徒歩10分以内
・昭和から平成にかけて建てられた物件であること
「ワンルーム投資の旨味を知り、このまま買い進めていけば、いつかサラリーマンを卒業できると思いました。しかし手元の資金には、限りがあり、融資を受けなければ買い続けることができません。当時、ワンルームに融資をする金融機関もありましたが、金利4%ほど。それでは投資として成立しません」
そんな折、とあるメガバンクがアパート向け融資を始めたことから、アパートに路線変更することに。
2005年に法人を作り、融資を受けて埼玉県本庄市に軽量鉄骨アパート3階建てのアパートを購入。さらにその後、2009年のリーマンショックのときには、勝負をかけて、融資を受けて鉄骨アパートを2棟、さらに木造アパートなどを買い、所有物件が100戸を超えた。

本業では経理の仕事がハードで、40代に入ってから胃潰瘍と糖尿病を経験した。このままのペースで働き続けるには限界を感じていたことから、2009年に会社員を辞め、専業大家となる。
明日の後編では、「1棟アパートの物件選定や融資のポイント」などについて話を進める。明日の【後編】につづく!
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健美家編集部(協力:
(たかはしようこ))