淵野辺という郊外エリアに東郊住宅社という「まちの不動屋」が運営する「トーコーキッチン」という食堂がある。2015年のオープン以来管理物件1800室の居住者のために破格にリーズナブルに食事を提供する食堂として、これまで100以上のメディアに取り上げられてきた。
この食堂の何がそれほど特別なのか、このほど出版された書籍「トーコーキッチンへようこそ!」(虹有社)から、その工夫と思想を探ってみよう。
トーコーキッチンとは
トーコーキッチンを運営する東郊住宅社は神奈川県相模原市の淵野辺駅を中心としたエリアで「まちの不動産屋」として営業を50年つづける会社だ。管理する物件は1800室余り。そのほとんどが現在満室となっている。
その理由の一つが今回出版された「トーコーキッチンへようこそ!」に書かれている入居者に向けた食堂「トーコーキッチン」だという。
営業年中無休、午前8時から午後8時まで、特に目玉の朝食100円の提供は11時まで。昼・夜ごはんは日替わり1種類、週替わり2種類を500円で提供している。
ただし、利用は入店のためにカードキーが必要となり、それは
1.東郊住宅社の管理物件入居者、2.管理物件オーナー、3.協力関係者のいずれか、となっている。
そこに「カードキー所有者の同行者は何人何回でも」「初めての人は一回に限り」という中間ルールが追加されている。利用者はここで食事をリーズナブルに取るだけでなく、キッチンで働く人と、またいつもの同席者とコミュニケーションをとることが「日常」となる。
それにより、「学生マンション」「学生アパート」に想像されるような「学校と部屋とアルバイトの往復、たまにコンビニ」というイメージではなく、まちのなかでオープンに社会的コミュニケーションを取ることが「日常」に自然に組み込まれるのだ。
このキッチンの存在により【入居率・成約率向上】【キッチン利用前提の問い合わせ】【比較対象の変化=築古、遠距離物件の成約】【入居予算のアップ】【問い合わせエリアの拡大】【家賃交渉のゼロ化】【オーナーからの管理料引き上げの申し出】などの変化があったという。
更に、このキッチンを利用し続けるために東郊住宅社の管理物件で住み替えるユーザーも出てくるようになったという。
池田社長の思考と実現まで
淵野辺エリアには複数の大学が郊外移転をしてきた歴史があり、東郊住宅社の管理物件もそういった学生向けのものが多いと聞く。
現社長でこのトーコーキッチンを企画した池田峰氏は東郊住宅社の二代目社長として、これら学生の住居を見てきた池田社長は元広告業界にいたこともあり、データから大きな流れの形を見て取る思考があり、そこに引っかかってきたのが「食事つき学生マンション」ニーズの動向だった。
少子化の傾向を反映して費用よりも提供サービスに、申込者の意向がスライドしていることを手掛かりに、新しい試みをいくつも考え、企業の未来を考えたという。
その第一手がこのトーコーキッチンとなった。先代から受け継いだ、フェアな不動産管理とその質を高めることに加えて、オーナーと入居者の「あいだ」の価値を高める、という目的を仮説として考えたのだ。
管理を任されている物件のハード的な要件は一朝一夕には変えられない。オーナー投資の額も大きい。であれば、管理側で可変なのはそのサービスなのだ。
ハード要件(物件競争力)×管理サービスのアップグレード=家賃×入居率=収益向上
という中間の管理サービスのアップグレードの線上でいわゆる一般的な不動産(管理)会社の業務の「範囲」をはずしてできることを考えた結果が今回の「トーコーキッチン」となった。
本書後半に書かれている、池田社長の思考の軸足は、ハードスペックの競争というレッドオーシャンではなく、現にある物件にすべて(他の誰も手掛けていない)サービスの網をかけることでそこに価値向上をもたらし、オーナー、入居者、そして管理会社のそれぞれが果実を分かち合うという新たな事業の広がりだ。
現代の管理会社が極力合理化された業務で自動的な収入を目指す流れとは真逆であることに注目すべきだろう。
サービスはもちろん人が行うので、単独企業ではスケールの限界がある。現に東郊住宅社では2000ぐらいがアッパーリミットというイメージがあるそうだ。
結果としてそのサービスが提供される/されないによって、エリアに地域性が出てくることにつながる。良いサービスも普遍的にスケールしてしまえば、結果その価値が見えなくなってしまう。
事業がスケールしないことがそれによって生まれた地域の価値を立ち上がらせるという逆説ともいえる。そして東郊住宅社が想定するスケールはその地域とまたかかわる個人とをちょうどフレームするサイズなのだろう。
物件スペックや既存の地域イメージでなく誰がどういうサービスを提供するかで選ばれる時代
トーコーキッチンがあることで、物件が選ばれる事例の紹介にも見られるように、現在の入居者の選択では、かならずしも従来の不動産要件(場所、広さ、家賃、築年)だけが点数化されるものでもない。
そこに掛け算で提供される「サービス」という要素を発見したところが東郊住宅社の先見の明であり、同時にそのうえで「トーコーキッチン」というプロダクトを実装してみせたところが池田社長の功績だろう。
では、プロダクトとしてみた「トーコーキッチン」では、何を見るべきだろうか。
本書でも書かれているように、(意外なことに)これらのサービスは「コミュニティ」を目的としたものではない。「コミュニケーション」を提供することは考えているが、そこから先はユーザーにゆだねる、という線の引き方にセンスの良さがあると感じた。SNSの時代に、つい個人の属人的な面を前面にすることで「わかりやすさ」と「バズり」を意識的、無意識的に狙うことが普通に見受けられる時代に、あえて「起きるまま」の余白を残した「トーコーキッチン」のデザインは、だからこそ長く持続できるものである予感がある。
そういった、長く持続されるサービスが結果としてほかのエリアとその提供エリアを別化することで、新たなエリアイメージが生まれる可能性を本書を読みながら感じた。
「なにもない」と感じている多くのエリアの人々にこそヒントになる不動産事業の在り方ではないだろうか。
執筆:
(しんぼり まなぶ)